昭和40年02月22日 夜の御理解
お話は、させて頂くものね、聞かせていただく者も一生懸命に頂かにゃ、お話も一生懸命にされない。あちらで手遊びをしておったり、いわゆる話を聞かせて頂くのに身を入れなかったら、お話をさせて頂いているものも身が入らな。そのお話と云う事が、お道の信心でいうお話は、神様の御心であり、お蔭の受けられる道を教えて頂くのであり、同時に、ここでは私が神様から直接頂いたことを皆さんに聞いて頂くのであるから、特別身を入れて、力を入れて頂かせてもらわなければおかげは頂かれん。
よく、こんな事を言うでしょう。あの人は葉ばかりながら、尻尾けなしだと。大根なら、大根の見事に出来ておる。もう青々としてこう引き抜いてみたところが、根は小さかった、と。そう云うような人がある。葉ばかりながら尻尾けなし、そう云うような家庭がある。いかにも立派なお家に住んで、うちに住んでおる人達も頭が良くて「あなた、こなた」と云うて、いかにも家庭円満なようにあるけれども、それでいて一つも幸せでないと云う家庭がある。
人間でもそうである。地位もでけた、名誉もでけた、お金もでけた。何と脇から見たならば、立派な大根がでけとるようにあるけれども、その人自身は一つも幸せではない。見かけだけは立派だけれども、何故かと云うと、内容がないから、中味がないからである。内容がないから幸せになれない。そこで、まず一人一人がお蔭を頂かねばならない。一人一人がお蔭を頂いて、それが家族の上にお蔭を頂いていかなきゃならない。
信心は、その内容を頂かせて頂く為に、信心の稽古をすると云うてもよい。内容を頂かなければつまらん。いくら信心を頂いておりましても、信心をしておっても信心をしておると云うだけではつまらん。信心の教えが身についてきて、それが行いの上に現れてこなければ内容はでけん。内容を頂かせて頂く為に、信心の稽古をせにゃいけん。根が肥えなければ、根が太らなければ、どんなに頭が良くて立派な家を建てて、地位やら名誉がでけても、それで人間が幸せにはならん。
それは葉ばかりながらの尻尾けなしである。どうでも一つ、根を頂きたい。根が豊に大きく肥えなければいけん。神様は、その心の、所謂、根が豊になり大きくなり、肥えることを教えて下さる。丁度先程、御祈念にかかる前に、福岡の秋永先生が見えた。今日は田主丸の共励会ですから、先生方皆、あっちにいかれた。先生も一緒にいかれたんです。そのために見えたんですけれども。夕べ、あちらの御月次祭で、朝方の三時まで、一生懸命信心の話で、信心の共励をさせて頂いた。
椛目で頂く御教え、それを皆さんは各々、どう云う風に頂くか、と。まずはおかげを頂かなきゃいけん。まずめぐりのお取り払いを頂かなきゃでけん。身に徳を受けなければ人間の幸せはないと云う事を教えによって、その教えをどう頂くかと云うことによって、どうそれを行じるかと云うことによって、それを行いの上に現すかと言うことによって、そこが決まってくるのだからと云うような話し合いで朝の三時方まで。高橋さんなんかは、そのまま朝の御祈念に参って来ておられます、福岡から。
中味をつくる為に、中味を頂く為に一生懸命。そして秋永先生がその御祭りの奉仕されとられる時に、御心眼に頂かれたのが「きれいなタクワンを御三方一台お供えしておるところ」を頂かれた、と。今日は、私は皆さんに、葉ばかりながら尻尾けなしの人間になっちゃならん。同時に、葉ばかりながら尻尾けなしの家庭を持ったんぢゃ、人間幸せはない。世の中には、あまりにも葉ばかりながら尻尾けなしの人が多い。葉ばかりながらの家庭が多い。どう云う訳、そう云う事になってくるのであろうか。
中味がないから。そんならそう云う中味根が肥えて太ると云う事は、どう云うような風にしていったら、それが根になり太ることのできるおかげになるか、と。私はタクワンのことを皆さんが一つ思うて下さったら、いいと思う。大根を取ったらあれを一時干しますかね、少しばかり。そしてそれを桶の中につけ込みま、塩をして。そして上から重石をかけます。そしてそれが日にちがたちますと、あのおいしいタクワンに。ほんとに見るからに黄金色をしたきれいなタクワンが出来上がるのです。
そう云うような順序を、たどらせて頂く時、例えば、日々の上にでも、一生の上においても同じ事が言える。だから、ここんところを、皆さんが一つ心がけさせて頂く。皆さんは一つの大根だと思いなさい。そして、例えば、桶の中につけ込まれる時には、やはり暗い思いをする時。暗い思いをする時には、今こそ、大根が桶の中に入れられとる時だなあと思わにゃいかん。
ですから、その暗い思いをしても、有り難いなあと云う気持ちを作っていかにゃいかん。ね、本当に重圧を感じる。重みを感じる。もう難儀でヘトヘトになるような思いをする時がある。金のない人は、借金の債促を受けたり、病気をしておる人は、本当に死んだ方がましと云うような、きつい思いをする時がある、けれども、今こそ重石をかけられとる時と思わないけん。
ですから、重石をかけられておる時であるから、それは有難いのである。そして、日にちがたって、タクワンが出来あがる。信心をさせて頂くものは、そう云う頂き方、暗い思いをする時、只今こそ、桶の中に入れられておる時であり、重い思いをする時に、きつい思い苦しい思いをする時には、今こそ重石をかけられておる時である、と。それを、楽になりたい楽になりたいと云うて、その苦しい事を楽な方に求めるならば、丁度せっかく水があがりかかっておるタクワンの重石をおろすようなもの。
成程楽にはなるけれども、それではですいわばすいごたる大根じゃないタクワンしか出来ません。出来上がりが悪い。自然天地の親神様がです、自然の中に各々の上にそう云う立派なタクワンに成り上がる為のおかげを働きを下さるのだけれども、皆はその理を知らない。そのわけを知らない。そして早う楽になりたいばっかりを願う。ハァーこげん暗い思いをするごたるならば、と云うて明るい所ばっかり早う出ろとこう思う。
暗い中にある時に、重い思いをする時にです、それが日々の上にもありゃ、一年一年の上にもありゃ、一生の上にもある。そこで、例えばタクワンが出来上がった。それを信仰体験という。信心の体験という。そう云う体験が自分の身の上に積み上げられていく時、次に暗い思いをする時、次に重い思いをする時、もう次には楽しゅうなってくる。ここが有難いでしょうが。一ぺんはどうでもそこを通らにゃいかん。
その体験をしなけりゃいけん。云うならば、これが何遍でも何遍でも繰り返して通ってもいい。繰り返して通っておるうちにです、成程、あの暗い思いをする時こそ、桶の中に特別に入れられておる時であるなあ、と。重い思いをする時こそ、良いタクワンが出来ておる時であるなあ、重石をかけられておる時であるなあ、と云う体験が出来てくる。体験が出来てくるから、有難い。
そこに、おいしいタクワンと云うか云わば、いわば御道で云うおかげが現れてくる。してみると、次には、その暗いことがです、重い思いをすることが楽しいことになってくるわけですたい。、この辺から、人間の中味が出来てくるのですよ。いいですか、この辺ば、皆が頂かにゃいかんと思うです。だから、教えを本気で守らにゃいけん。教えを行じなければ、それがでけん。
一ぺん暗い思いを本当にさせてもらって、重い思いをさせて頂いて、そう云う人はたくさんあるけれども、それを信心で頂こうとする人は少ない。信心があっても、何十年の信心を頂いていておっても、すぐ楽な方へこう手を出そうとする。すぐ他のあの手この手を使うてでも、云わばタクワンを作ろうとはしない。そして、そのおかげは、ただすゆいようなものだけでしかでけとらん。本当なものは生まれていない。
この辺を一つ分からにゃいかん。ここんところをどうでも体験しなけりゃいけん。ほんなこつじゃあるだろうかと云うごたるけれどもです、そこを信用しなければいかん。信じなければいけない。神様の教えて下さることを信じて、ハァー暗い思いをしておる、今こそ桶の中にある時だなあと云うことを信じなければいけん。きつい苦しい思いをする時に、今こそ重石をかけられとる時だなあと思わにゃいかん。
それを信じなければいけない。そして、体験として生まれるのが、立派な味のよいタクワンが出来たと云うおかげが受けられる。そのおかげを受けるから、サァー次には、今度は、ホーこげな有難いおかげが受けられるのならば、暗いことも有難いことだなあ、重いことも有難いことだなあと分かるでしょう。もう、その次にはですたい、その暗いことを難儀とも思わなければ、重いことを難儀とも思わない。
みんな、神様が、おかげを下さろうとする働きであると云う事が分かる。この辺が分かるですか。それを、あるものは神愛だけしかない。神様の愛だけしかこの世にはないと云う事。ここの体験をさせてもらうから。何十年信心しておってもです、そのタクワンが出来上がっていく過程と云うものをです、苦しい思いをしたことも、そりゃ大変な苦労もしました、重い思いもしましただけですね、結局は、それを本当に仕上げていないから、立派なタクワンが出来ていないです。
ですから、次の難儀、次の暗い事、これはもう恐くてたまらん。だから、平穏無事ばっかり願う。もう何もない事だけがお蔭のごと思う。一ぺん、ここの味わいを分からして頂いたらです、自分から求めてからでも、暗い中に飛び込んでいきたいような元気な心が出る。それを、御道では修行と云う。自分から求めてでも重い思いをしよう、きつい思いをしよう、人の分まで修行してやろうと云うような気持ちが起こってくる。
その味をしめておるから、その味が分かっておるから。そう云うあり方になることが中味ができた人だと云うことになるのですよ。どんなに、例えば、どんなに苦しい事ぢゃろうかと脇から見たら思うような場合にも、平気でいけれる。中味が出来てござる。中味のある人にならなきゃいけん。その中味のある人にならせて頂いて、それが家内に、子供に、家中におかげを頂いていく時にです。家族中のものがそのことに勢を揃えておかげを頂いていくことが出来る。
一つの例えば、ゲームを致しましてもですね、チームワークと云うものがとれておらねば出来ない。そこんところを教祖の神様は、一家中が、勢を揃えて信心をせよとおっしゃる。大きな難儀な問題が起こってもです、これは、家の上にかけられてる重石であり、家中が今、桶の中に入れられておる時であるのだと云うて、家族中のものが、そのことに対して元気な心をもって、有り難いと云う気持ちで修行していったら、家中のものが、タクワンになるようなもの。
そこに、云わば家の力もできりゃ、家そのものも太りもすりゃ、根も生えると云うことになる。世の中にはね、葉ばかりながら尻尾けないと云う人がたくさんだと思う。又信心させて頂いておるものが、ならば根があるかと云うと、信心させて頂いておっても、何十年信心させて頂いておってもです、そこんところを頂きぬかなければ、力にも徳にもならない。信心の力を頂き、信心の徳を受けて、初めて、その人の根が出来たと云う事が言える。心ができたと云うことが言える。
そこには、葉もきれいならば、根も美事な根が生える。どうでしょうね。どんなに暗い思いをする時でも、どんなに重い思いをする時でも、それによって力ができる、度胸ができる。どんな場合でもビクともせん、微動だもせん。そう云う人に私はならせて頂く。いやむしろそれが楽しみである。ハァーこう云う次には、必ず美事なタクワンが出来上がる時であるのが分かっておるんだからとにかく、自分からその苦しみから逃れようなんていう気持ちがなくなってくる。
そう云う人を私は中味の出来た人だとこう言える。ここには、頭が良いとか、悪いとか、器量が良いとか悪いとか、お金が有るとか、無いとかと云うようなことは問題でないことになってくるんですよ。器量が良かれば幸せ、金がたくさん有れば幸せ、頭が良ければ幸せ、絶対そうではない。所謂中味のでけた人が幸せになれるのです。中味と云うのはです、難儀のむつかしい言葉で云うなら、難儀の実体。
昨日、ここに見えとる堤さんが、ここで言われる。先生、この頃、二、三日御無礼しましたが、やっぱり御無礼しちゃいけません。毎日お参りをさせて頂きよる時には、腹ん立つ時でも、腹の立つようなことでも立たん。立たんどころではない、有難い。ところが、この位のことで腹立てちゃでけんと思うことで腹が立つ。本当に、日々稽古させてもらわにゃでけんと云うわけ。
そこで先生、どうでも、ひとつ肉眼をおいて心眼を開け、と仰る心眼を開かにゃいけんと思います。大体、心眼とはどげなもんでしょうかと云うて、夕べここでお伺いされた。私が難しい言葉で言うた。それはね、肉眼をおいて心眼を開くと云うことは、一次元の世界から二次元の世界に住みかえることだ。一次元の世界と云うのはね、信心のない人達、信心の薄い人達、例えば、難儀を難儀とみておる人達の姿を一次元に住んでおる人ということです。二次元に住まわせてもらう。
所謂、肉眼をおいて心眼を開く。心の眼を開かせてもらうとです、心の眼をもってすると、難儀と思うておったのは、難儀ではなくて、云わば神愛である。心の眼をもってすると、それはお礼を申し上げなければならないことにです、どうして自分だけはこげなバカらしい目に合わなんだろうかというて、泣きの涙でおる。片一方の人は、同じ事柄で有難涙をこぼしておる。
信心とは、だから一次元の世界から二次元の世界に、又は三次元の世界に住みかえていく事である。それを教 祖は「この方ばかりが生神ではない。皆もこのようなお蔭が受けられる」と仰っておる。そう云う、信心とは素晴らしい道の開けれる道を教えて頂くのですから、せっかくその道を聞かせて頂くのであるから、その道を歩かなければ、行じなければいけんでしょう。
今朝、私、御神前に出らして頂いたらですね、あの、二、三日前、落語家が向こうから歩いてきておるように見えるんです。それが大写しになったら、なんの座布団の上に座っとるです。座布団の上に座っとるでしょうが。噺家と云う人は決して動かない。このままで酒を飲んでいる風をしたり、歩いている風をしたり、こうやってやっておるわけ。もう私は、歩いてきておる風に見える。
座っとって歩いてる風に見える。お芝居なんか、舞台でやるでしょう。一生懸命走る。一生懸命走っとるように見せてるけれど、いっちょん走っとらんでしょう。云わば、走っとるつもりじゃいかん、歩いてるつもりだけじゃいかん。信心させて頂きよるけん、どげんかなるぢゃろうぢゃいかん、と云うこと。信心させて頂いておるつもりである。信心の道を習うて、その道を歩いて行かなければ、おかげのとこには到達しない。只、拝むことだけぢゃいかん。
信心の道を歩くと云うことはです、容易いこと。日々の問題をです、実意丁寧に、こうすることが本当だと云うことをなしていく事だけ。そこに自ずと、肉眼をおいて心眼を開くことが出来るのであり、一次元の世界から二次元の世界に住みかえていく事が出来る。どう云う楽しい事になるだろう。みんなが、苦しい苦しいと云うて、苦しい涙を流している時にです、こげな有難いことがあるぢゃろうかと云うて有難涙を流せる世界があると云う事。同じ事柄で。そう云う人を私は中味のある人だとこう思う。
それが、家族中、そうなれた時です、家族全体の助かりであり、家族全体の幸せであると云う事になるわけです。どうでも一つ、せっかく信心をさせて頂くのであるから、せっかく御理解を頂いておるのであるから、御理解が自分の身に血に肉になっていかなければ。この世はね、決して、ごまかし半分で幸せになれることはありません。ね、成程、要領のよい、ごまかし半分でやっておる人があるけれども。
その人がごまかし半分でいかに金を儲けだしても、どんなに立派な家を建てましても、どんなにごまかし半分で良い地位を得ましても、名誉を得ましてもです、その人の心の中はいつも苦しい。苦しいだけではありません、そう云うような事が、必ず難儀な、いよいよ、まあ云うならばですたい、いうならバチかぶると云うような事を申しますですね、そう云う人達がバチかぶらんはずがなか。
何かの場合、必ず神様はそこに差し引きと云うものがある。おかげを頂かしてもらってから、中味のある人にならして頂かねばいけません。為には、私が今申しましたように、タクワンの私は話をしました。タクワンの、味をおいしゅう作ってみる、どうでもこうでも一つ体験をしなければいけないということ。ところが、何十年信心させて頂いておっても、その体験を持たない人が多いと云う事。ね、
暗い思いをする時には、暗い思いするでから泣き悲しんでおる。私のような不幸せなものはあるじゃろうかと言うておる。重い思いをする時には、とても私は、私一人でこげなものばになわならんとは、こげな不合理な事はないと言うて、人を恨んだり、世間までも恨むような事を言う。それで、よしお蔭は、次のお蔭は頂いておっても、そのでけたお蔭はすゆいような大根しかでけとらせんて、タクワンしかでけとらん。
だからここをのがれず、逃れようとせず、今暗い思いをしておるなら、今こそ桶の中にあるんだと云う辛抱、重い思いをしておるなら今こそ、重石をかけられておるんだと、一つそのタクワンが出来上がってしまうまで、辛抱しぬかせて頂いて、見事なタクワンを頂く、タクワンの徳を受けさせて頂いて初めて、成程ということが合点がつく。
暗い思いをすることも有難いのであり、重い思いをすることも有難いことであると云う事がわかる。してみると、この次から、暗い思いをする事があっても重い思いをする事があっても、それが楽しゅうなってくる。有難うなってくる。そう云う生活を幸せな生活、そう云う人を中味のある人、そう云う家庭を中味のある家庭と云う事になるのじゃないでしょうかね。おかげを頂かなければなりません。